『ガーすけと桜の子』服役記録

筆者の自担であるジャニーズJr. 矢花黎さんが主演を務める舞台「ガーすけと桜の子」*1が3月19日をもって終演した。

 

正直、こんなにも早く終わって欲しいと願った舞台は生まれて初めてだった。辛かった。

思い出すだけでそれなりの苦痛を伴うが、次回作の決定という悪夢の再来を引き起こさない為にも、今回の舞台について物申したい。

筆者は一度も#矢花黎に物申す というタグを使った事がないのに、まさかこんな形で物申すことになるとは…

 

 

このブログは上記舞台を3つの観点に分け、それらに該当する小項目を設定した。最後に結論を付け加え、4つのパートで構成されている。

長くてこんなに読みたくない!という方は気になる項目のみ読んで貰って構わない。むしろそうして欲しい。また、このブログは以下の考え方を他者に強制するものではないことを予め断っておきたい。

 

 

 

宣伝・集客・運営面に関する指摘

舞台本編の感想より先に、上演前の出来事についてここで述べる。

 

不安の募るポスター

2022年11月26日に本舞台の上演が決定し、ジャニーズJr.情報局メールサービスや運営元であるワンダーヴィレッジ演劇公式Twitterでも情報解禁がなされた。*2

情報解禁と同時に公開されたポスターをご覧いただこう。

ポスターを見た時、言葉を失った。

オモテ面の指摘から入る。主演の矢花黎さんを中心に出演者がそのまま切り抜かれ、そのまま貼り付けられている。

また、舞台に必要なのか分からないほど奇抜な装飾を施されたキャラクターが多く、何をやりたい演劇なのかが全く分からない。また、変な住人=過剰なメイクや衣装でしか表現できないことに強い違和感があった。

次にウラ面。あらすじ・チケット詳細・日程・ 運営スタッフ詳細が吹き出しや四角い枠で囲われている。ポスター作成のルールでは、フォントや行間を工夫することで吹き出しや枠は減らせ、伝えたい情報をシンプルに伝えられるものだが、今回のポスターではあえてこういったオブジェクトを使用しないといけなかったのか、と落胆した。

加えて、あらすじには以下の文言が記載されている。

ここは古いアパート「たちどまり荘」

なんとも縁起の悪そうな名前だが住み心地はとても良い。

ほかの住人の方も…変な人しかいないけど…

とにかく良いんだ!

このたちどまり荘に住めば運命が変わる!?

なくした…いや…忘れた夢と共に…桜は散る。

古いアパートの住人とのドタバタコメディ!

それぞれの『夢』をテーマに巻き起こるちょっと不思議な物語。

このあらすじを読んだだけでは、どのような演劇なのか伝わってこない。舞台の概要を伝えているのではなく、ただ制作者が言いたいことをそのまま並べているだけのように感じられた。

以上の事から、このポスターを見てお世辞にも「この舞台を観たい!」という気持ちを掻き立てられることはなかった。舞台発表時から不安が強くなったのを覚えている。

 

有料の主催者先行枠

本舞台のチケットは主演先行(ジャニーズJr.情報局)での申し込み以外に、主催者先行チケットが存在した。*3

ジャニーズ事務所所属のタレントが出演するワンダーヴィレッジ主催の演劇で、主催者先行があることは前例から変化は無いのだが、今回特筆すべきはその主催者先行が有料だったという点だ。

出演者のオタクの中には¥480/月 を支払い、チケットを申し込んだという人も多いのではないだろうか。ちなみに筆者は落選し、ワンダーヴィレッジのいいカモとなったのはまた別の話だ。

当選落選の如何にせよ、今回疑念を抱いたのは主催者先行の終了直後に有料システムが即刻終了になったという点だ。

乱暴な言い方ではあるが、タレントの集客力に任せて金をむしり取れるだけ取ろうとする魂胆が透けて見えるようだった。

※後日、当選者はチケット送付先の情報をGoogleフォームに入力したらしい。一定の個人情報保護機能があるとはいえ、もう少し信頼出来る個人情報取得をフォームを使ってはどうかと思った。

 

主催者先行のチケット

残念ながら筆者の手元に主催者先行のチケットはないが、知り合いにチケットを見せてもらった。それは"舞台名と日時が印刷されたただの紙"でしかなくチケットとは言い難いものだった。それなりの規模で公演をする興行なのであれば、チケットの紙質、デザイン、偽造の可能性等を改めて検討して欲しい。

 

グッズ販売時のビニール袋

開演前には会場でグッズ販売が行われていた。グッズの質について物申したいこともあるが、今回特に気になったのはグッズ購入後に渡されたビニール袋だ。

パンフレットがはみ出すサイズ、クマのようなよく分からない動物がデザインされており、明らかに舞台を観劇に来た観客に渡すものではなかった。筆者個人としては、これ(袋代)に予算を使うのであれば袋の配布は不要だと思ったし、この予算をどうにか舞台美術や他の用途に充てて欲しかった。

 

 

舞台脚本に関する指摘、感想

ここでは舞台の本編や登場人物ついて述べる。なお、筆者は初日観劇直後、脚本に関してTwitterに以下のような感想をぶちまけている。

要は脚本が無い、何を意図した舞台なのかが分からなかったという事を発信しているのだが、この点について以下で細かく掘り下げる。

 

過剰な内容の盛り込み

物語全体は「たちどまり荘」というアパートに暮らす住人たちが抱える過去や現状の問題に向き合う話なのだが、描きたいストーリーが多すぎるが故に登場人物の心情描写や物語の展開が分かりづらく、心を動かされない舞台だった。

また、ただでさえストーリーが多いのに、同時進行でコメディ要素を入れていることには非常に混乱した。真剣な会話をしている2人を横目に暗闇で他の登場人物が笑いを取ろうと奔走しており、真剣にストーリーを知ろうとしても、これでは観客が内容に集中出来ないと感じた。舞台の進行上不必要な笑いを入れたものをコメディと称すのはナンセンスだ。

場面ごとに、主人公の龍之介はナレーションを行う。しかし、それも舞台の進行と紐付けられない不明瞭なナレーションであるか、ポスター記載のあらすじをそのまま読ませるナレーションかの2択だったため、本当にこの舞台で意味を成しているのか疑問に感じた。

 

的外れな当て書き

ある雑誌でのコメントによると、今回の舞台脚本では当て書きをしたそうだが、実際には当て書きとはかけ離れていた。

矢花黎さん演じる主人公、四季龍之介は舞台上で叫びながらツッコミに徹していた。おそらく脚本家は「不憫売りをされている矢花黎」という側面を描きたかったのだろうが、それは当て書きではない。ただ単に、パブリックイメージで売られている矢花黎を、適当に、舞台上に引っ張りあげただけだ。三谷幸喜の当て書き論*4をここで紹介するが、当て書きというのなら、矢花黎さん含めた出演者が、どのような事をしたら面白いか、どんな台詞を言ったら面白いか、是非検討して欲しかった。

 

不要なコメディ要素

コメディ要素については先程も軽く触れているものの、内容についてもう少しだけ書き加えたい。今回の舞台は「ドタバタコメディ」と称しているが、コメディ要素に関しては不可解な点が多かった。ハデスのバイト、大家の先入観の話やパートナーの噂、急なツッコミや声量の大きい絶叫・叫び声等、何を取ってもどこで笑えばよいか分からなかった。

特に大家のパートナーの話は、この脚本上の大家のことではなく、出演者のあべこうじさん本人の話だ。これを舞台本編に取り入れることに何の意図があったのだろうか。

 

キャラクターの描写①(龍之介)

主人公の龍之介は文化人を1度は諦めたものの、幼馴染の岡本と共に絵本作家として再起する役柄だ。文化人志望故に言葉にこだわりを持っている設定だが、住んでいるアパートの住人に対して「なんかいいんだ!」という薄すぎる表現をする。登場人物への掘り下げがいささか浅いように感じた。

 

キャラクターの描写②(春美とその娘)

たちどまり荘の住人には春美というスナックのママをしている中年女性がいる。舞台の一部で、春美とその娘の和解を描くのだが、非常に違和感を感じる内容‪であった。

仲の良かった2人が決別する根本的な原因は母親の責任にある(ex:娘の気遣いを無下にする、約束を反故にする)のにも関わらず、和解のシーンでは娘から「ごめんなさい」と歩み寄らせる。また母も、娘の謝罪に対して「この親不孝が…でも大好き」といった内容で返答していくのだ。

あまりにもいびつに描かれた親子関係に、ぞっとした。いつの時代も親が正しいというような、ある意味間違った描かれ方をしていた事が悲しかった。

余談だが、過去の親子の様子は回想として展開される。この場面切り変えの手段として暗転と劇伴が使用されているのだが、劇伴は数秒驚くほどポップな音楽が流れた後、物悲しげな音楽に移り変わる。回想に移る前もシリアスなシーンなのに何故急にポップな音楽を流すのか、筆者は未だに理解出来ていない。

 

キャラクターの描写③(夏目)

たちどまり荘の住人の1人に、夏目という女優志望の女性がいる。彼女はミュージカル女優を目指し日々オーディションを受け続けているのだが、ミュージカルという言葉への理解が浅いことや、オーディションに落ちた悲しみを一定の距離感を保っているはずの住人へ急にぶつけ始める等、龍之介と同じく人物の掘り下げが浅いように感じた。

また挫折から立ち直る際、他の住人からエールを贈られて元気を取り戻すのだが、立ち直りが早すぎて心の動きが丁寧に描かれていないように感じた。ストーリーをより描きたいのならコメディを省けばよいし、コメディをやりたいのならストーリーを省く勇気を持って欲しい。

 

 

舞台演出に関する指摘、感想

ここでは舞台の演出について述べる。

 

叫ばせる/突き飛ばす

舞台中には出演者が急に叫んだり、出演者が自分以外の出演者を突き飛ばすような形をとって緩急表そうとする場面が散見された。意味の無い叫びも突き飛ばされたことによって出る音も、観劇する上では集中力を削ぐものだった。

特に、矢花黎さんは突き飛ばされることが多い役であった。本気で突き飛ばされてはいないと信じつつも、公演中はいつか怪我をしそうで怖かった。

 

不要な暗転

とにかく、場面が変わる毎に暗転をしていた。前述の叫ばせる/突き飛ばす と同じく集中力を削ぐ要因であったし、丁寧に見直せば不要な暗転を減らす事ができたと思う。

 

設定にそぐわない舞台美術

舞台美術については、ワンダーヴィレッジ公式Twitter*5から拝借した画像を用いて指摘する。

今回の物語の舞台は古いアパートのたちどまり荘だが、ご覧の画像の通り、ペンキ塗りたての壁のように真っ青であるし、「たちどまり荘」と書かれた館名板も新品そのものである。観客に場面を想起させる舞台美術を準備できていない事実が、非常に残念だった。

また、壁面に貼られたツタも配置や色味が中途半端で、観ているものに不快感すら与えかねない。

 

出演者頼りの小道具

次に、本舞台に登場する小道具について指摘する。

まずは、ワンダーヴィレッジ演劇公式Twitter*6の画像を拝借し、龍之介の自室に置かれたものから確認していく。

この画像を見ただけでも、矢花黎さんが好きだと公言している頭文字Dの漫画や彼が過去に主演舞台を務めた江戸川乱歩作品の書籍が配置されていることが確認できる。

登場人物のキャラクターをどう描くかはあくまでも演出家の判断ではあるものの、ただ矢花黎に関連するものだからという理由だけで、安直にそれらが置かれているような気がして、気持ちのいいものではなかった。特に、江戸川乱歩作品に関しては別の脚本家・演出家が手掛けた舞台である。その舞台の内容を持ち込むのは過去作品への冒涜だと思った。

自室以外では、彼のアクリルスタンドが登場したり、龍之介の父親が手土産に「黎明」という日本酒を置いて帰る事があった。これらも出演者頼りの演出で、作品として四季龍之介に向き合うことは無いのかと諦めに近い感情を持った。

 

増加したアドリブ量

筆者は東京公演を11.12.18.19日のスパンで観劇したのだが、12日から18日にかけてアドリブ量が多くなった。それにより舞台の冗長さは加速し、通常回すら不必要な要素を盛られた舞台が、また更にもたついていた。

出演者が必死に観客を楽しませようとする気持ちは痛いほどわかる。目の前に座る観客が楽しめていないのはエンターテイナーにとって辛い事だからだ。ただ、目先の笑いが真の舞台評価に繋がるとは限らない。その見極めや方向性の修正を出来るのは演出家のみだが、本舞台では目先の笑いが最優先だったことを改めて突き付けられ、非常に悲しかった。

 

千秋楽での音響ミス

最後に、千秋楽での出来事を挙げる。本舞台では、幼少期の龍之介と飼い犬ガーすけによる過去の描写があるのだが、その場面に切り替わる音響が0.5秒程早かった。率直に言おう。千秋楽という重要な公演で、ミスをすることはプロとして有り得ない。筆者はこの舞台の内容自体に思い入れはないものの、このミスには面食らったし、興醒めした。また、この舞台に関わるスタッフの仕事に対するプライドはその程度なのかと疑わざるを得ない事態だった。

 

結論

以上が、ガーすけと桜の子を観劇した筆者の所感だ。最後に、この舞台を通しての結論を3つ述べて終わりとしたい。

まず1つ目に、このクオリティの舞台を開催し続けないで欲しいという事だ。筆者を含めオタクという生き物は異常執着行動を行う為、何がなんでも彼らがいる場所には出現するが、執着対象の彼らが行う仕事がなんでもいいという訳では無い。オタクという生き物も思考し、判断し、選択することが出来る。彼らのタレント力に任せきって、品質に手を抜くという甘い考えは捨てるべきだ。

2つ目に、「笑って泣ける話」という言葉の定義を見直して欲しいという事だ。今回の舞台は、笑って(=演者の力量に任せる、モラルのない笑い)泣ける(=薄い状況描写)話でしかなかった。これまでに挙げた指摘や感想が積み重なった舞台がどのようにして質の良い作品と言えようか?

3つ目は、ビジネスとして価値ある作品を提供出来たのか、今一度見つめ直して欲しいという事だ。目先の利益追求なのであればこのままでも構わないかもしれないが、長期的な観点で見て、顧客の期待を下回る成果を出し続ける企業は成長していくとは思えない。ぜひ今一度これまでの取り組み含め、振り返って欲しいものだ。

 

 

舞台期間の序盤は怒りを感じながら、中盤は気を狂わせながら、終盤はこれは舞台ではない何かだと脳内で変換しながら観劇した。非常に稀有な体験だった。

ただ、この出来事をすっぱりと無かったもののように忘れてしまうのも筆者の性格上の愉快でないので、駄文ではあるものの、服役記録という形で公開する。

 

おわり